このコーナーでは、仙台藩のスーパースター達に登場してもらいましょう。
◎伊達藩の一寸法師?(三尺左吾平)
むかし、仙台藩に三尺左吾平という居合抜きの達人がいました。背丈は三尺(子供くらい)しかないのに、体より長い刀をさして、さやの先には車輪をつけてひっぱっていたそうで、いろいろと武勇伝が残っています。
江戸に芝居見物に出かけたときのこと、「そんなちっこい体でそんな長い刀が振り回せるもんかい!やれるならやってみな」としつこくからんできたごろつきのまげをパチンっという音とともに落とした話や、弟子の額にろうそくを鉢巻で結わえさせ、目にもとまらぬ早業でろうそくを真っ二つに、しかも火は消えず、額にはかすり傷一つなかったという話などが伝わっています。
さて、こんな左吾平ですがある日、愛宕神社に月参りに出かけ、お参りをすませ茶屋によって好物の団子を食べていると、団子屋の親爺がこんなことを申し込んできました。「三吾平さんの日本一の居合と日本一の団子つくりのオラと勝負するベエ! 三吾平さんが刀を抜いて鞘に納めるまでの間にこのヘラであんこを少しでも刀につけることができたらオラの勝ちだ!」と。 そこで左吾平も「もし、おぬしが勝ったなら店の団子を全部買ってやろう!」と約束し、いざ、左吾平が刀に手をかけ”パチン”と音だけがしたんだと。ゆうゆうと刀を抜いてみて三吾平はたまげてしまった。刀にはあんこがべったりとついているではありませんか。これは、左吾平一世一代の負け勝負であったという事です。
うちの父にも話を聞いたのですが、この愛宕神社の参道にあった団子屋さんですが、戦時中にはもうなかったそうです。 残念!
三尺左吾平の話は、1944年に榎本健一(エノケン)の主演の映画にもなっていますので、ご興味のある方はご覧になってみてはいかがでしょうか。宮城県図書館にも置いてありましたよ。
◎伊達藩のバットマン?(松林蝙也斎)
現在の東北大学の正門近くに昔、道場小路という通りがありました。 この通りは、松林左馬助が道場を開いて剣術の普及に努めたことから名づけられました。
昨年の大河ドラマの主役義経は鞍馬山で天狗に稽古つけてもらいましが、左馬助は浅間山の天狗に剣術を学び、飛んでいるハエの首を切り落としたり、川沿いの柳の葉が水に落ちるまでに13個に細切れしたとかいわれ、仙台藩二代藩主忠宗の時に藩の剣術指南役になりました。
そんな名声が江戸にも聞こえ、「伊達藩にそのような剣士がいるのならぜひ見てみたい」と三代将軍家光に言われ、伊達のお殿様は左馬助をつれて江戸に行きました。ところが将軍家光は目の前に現れた左馬助を見てがっかり。そこにはもう六十歳になろうかというおじいさんが立っていたのですから。
ところがいざ試合が始まると、その身のこなしは江戸の名あるどの剣士よりも機敏に動き、何よりも驚いたのは相手の刀に身軽に飛びのったり、屋根に飛び乗ったりと、相手を翻弄しては相手に打ち込んでいったそうです。そのひらリひらりとすそを翻して飛ぶ姿に将軍様は「あっぱれ、その姿蝙蝠(こうもり)の如し」といい、左馬助にたくさんのご褒美と蝙蝠のような剣術であるから「蝙也斎(へんやさい)」という名前を与えたんだそうです。
◎烈士伊東七十郎と縛り地蔵尊
米ヶ袋の広瀬川沿いに、顔も体も縄でぐるぐる巻きにされたお地蔵さん(現在は体にのみ縄が巻かれています)があります。 これはその、縛り地蔵尊にまつわるお話です。
寛文事件(伊達騒動)の時、伊達兵部を切ろうとして捕らえられた伊東七十郎重孝は、寛文8年4月28日当時刑場のあった米ヶ袋で斬罪に処せられました。 片平丁の牢に入ってから33日間断食をしていた七十郎は、鹿の子清水の坂から捕縄をとっていた獄卒を横倒しに引きずったまま駆け出して刑場に向かい、土壇場に坐ってから首切役のお小人衆大橋萬右衛門に言いました。 「人は首をはねられると前にのめるが、俺は仰向けになるだろう。 さすれば、兵部殿を3年のうちに亡き者にして見せよう」と。 萬右衛門が斬り損ずると、後ろを振り向いて、落ち着いてよく斬れといい、果たして後ろに倒れた。 萬右衛門はその翌日、小人頭を辞めて仏門に入り、七十郎の供養に立てたのが縛り地蔵だといわれています。
現在、縛り地蔵の対岸の愛宕神社境内に伊東七十郎の招魂碑が立っています。

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